結婚式場の提携業者ではない、 外部の映像業者に動画制作の依頼をするとき、 「一体どんな人がやってるんだろう?」 「何を考えて映像を作っているんだろう?」 「本当にちゃんとやってくれるの?」 というような疑問や不安があるものです。
そんな不安を持っている方々のために、 安心してご依頼いただけることを目的として、 DEPO LABOを立ち上げるに至ったきっかけと、その想いを書き記します。
目次
▼韓国の母と日本の父の間に生まれたこと
▼父の姿を見ていたこと
▼韓国と日本をつなぐ憧れの存在
▼はじめて作った動画作品
▼ウエディングビデオの仕事との出会い
▼テレビ業界で感じた疑問
韓国の母と日本の父の間に生まれたこと
まず、 わたくしDEPOの、個人的な来歴について触れたいと思います。
トップページにプロフィールが書いてありますが、 もう少しパーソナルな部分に踏み込んだ内容を、ここでは書きます。
私は、1989年7月10日に、韓国の母と、日本の父との間に、 韓国ソウル市内で生まれました。 それからはずっと日本での暮らしで、 夏休みなどの学校が休みの時期には、 家族で必ず韓国に行っては、 母方の祖母のところに泊まっていました。
子供の自分に、韓国の親戚たちは、容赦なく韓国語で話を振ってくるので、 強制的に韓国語の日常会話が、それとなくできるようになってきました。 (母は普段日本語で話しますが、怒ったときとかは韓国語です笑)
私の日本での名前は、大輔なのですが、 韓国での読み方だと「デポ」(데포)となるので、 韓国の親戚からは「デポ」と呼ばれていました。
DEPO LABOのDEPOは、この呼び名から由来したものです。
父方の家族には、男の三兄弟がいますが、 3人とも何かしら写真関係で仕事をしていました。 父は印刷会社で働き、ほかの叔父は、 写真スタジオを営んでいたり、水中写真家として活動していました。
父の姿を見ていたこと
父は写真を撮ることが趣味で、 韓国に写真を撮りに行ったことが、 私の母と出会うきっかけになったので、 写真がふたりの出会いのきっかけになったと言えるんじゃないでしょうか。
そんな環境で育ったので、 常に周りにはカメラがありましたし、 自分専用のデジカメを行く先々に持っていっては、写真を撮りまくっていました。
私が、小学校~中学校の頃、 父は、PTAで広報をやっていて、 学校行事があるたびに、写真や動画を撮っていました。
当時は、 「お前の父ちゃん、今日も撮ってんな」 というような感じで、父は、友達にもおなじみの存在になっていました。 当時は、そんな父の存在が気恥ずかしくもあったのですが、 カメラを回す父の姿が、 私に、写真や動画を撮ることの楽しさを教えてくれたのだと、 今では思います。
そんな父は、2016年2月に、長い病気のために他界しました。
FacebookなどのSNSを通じて父の死を報告したところ、 小学校時代の友人たちが、 「いつも運動会とかで撮影していた姿を覚えている」 という話を聞かせてくれました。
父は、 撮影を通じて、誰かの記録を残しながらも、 誰かの記憶に残り続けていたのだと知り、素敵だなと思いました。
映像づくりを通じて 誰かの記憶に残るような仕事がしたいというのが、 DEPO LABOという映像ブランドを続ける大きな理由になっています。
父の存在を覚えつづけていられるように、 映像のすばらしさを教えてくれた恩返しの意味も込めて、 父が好きな歌にのせて、映像を作りました。 (ラストにロゴが出るところは、父がいたからDEPO LABOは存在するという想いを込めています)
韓国と日本をつなぐ憧れの存在
中学生だった当時、友達の影響で、 CHAGE&ASKAが好きで、彼らの音楽を聴きまくっていました。 (全然世代ではないので、ほかの友達とはチャゲアスの良さを分かち合えませんでしたが…)
今でもチャゲアスの音楽は大好きなのですが、 音楽性以外にもうひとつ、チャゲアスが好きな理由があります。
それは、 戦後、韓国で初めて大規模興行をした日本人ミュージシャンである、 というのが大きな理由です。
戦後、かつての韓国では、 日本のドラマ・映画、日本語の歌の放映や公演が、 厳しく法律で禁止・制限されていました。
韓国の人と会った時に、 「スポーツはどっちの国を応援するのか?」 「島はどっちの領土だと思う?」 というようなことを聞かれることがあるので、 戦争をきっかけにした、 歴史的な部分については、 ふたつの国の間に、今でも影を落としているのだと実感しています。
そんな逆風のなか、 大規模な興行をしたチャゲアスのライブ映像をみた私の目には、 とてもかっこよく、憧れの存在として映りました。 そして、 チャゲアスの韓国ライブ以降、 韓国での日本の文化規制は次々と解禁されていきました。
そんなチャゲアスの実績を目の当たりにしたことが、 「日本と韓国の橋渡しになるような仕事がしたい」 と思うきっかけになりました。
はじめて作った動画作品
写真の撮影技術を学ぶために、日本大学芸術学部写真学科に入学しました。
その当時、 映像業界では、デジタル一眼レフカメラで動画撮影をすることが一般的になり始めている時期だったので、 大学の授業では、動画がカリキュラムに取り入れられていました。
公開するのは、かなり恥ずかしいのですが、 これは、その当時に初めて作った動画作品です。
制作人数が2人で成立するものである必要があったので、 テレビや映画で観るのが好きだった、 ドキュメンタリーの手法を使って制作した映像です。
写真を学ぶことが目的で大学に入ったのですが、 この映像作品づくりがきっかけで、 動画を作ることの面白さにのめり込んでいきました。
ウエディングビデオの仕事との出会い
映像作品を作った直後に、 大学で初めての映像作品を一緒に作った友人から、 ウエディングの動画撮影をするカメラマンのアルバイト求人があることを知らされます。
動画のことをもっと知りたい! と思った私は、 その友人と一緒に、ウエディングエンドロールの撮影アルバイトを始めることにしました。
そのウエディングビデオの会社で出会ったのが、 映像ディレクターの鈴木佑介さんです。 彼は、独学で映像制作の技術を習得した、フリーの映像ディレクターの方で、 現在でもウエディングや企業映像制作等の分野で、第一線でご活躍されています。 基本的なカメラの扱い方、撮影手法、撮影をするうえで大切なことは、 その当時、すべて鈴木さんから教わりました。
ウエディングの現場は、ドラマなどの撮影と違い、 納得がいくものが撮れるまで、テイクをやり直すことが難しい分野です。
一発でいい画を撮る技術が求められるため、 社内での技術レクチャーは厳しく、 一人立ちしたカメラマンとして認められるまで、 一年ほどかかってしまいました。
ウエディングのライブエンドロールの仕事での最大の魅力は、 「お客さんのリアクションが、目の前で見れること」 でした。
自分が撮った映像を見て、会場に来ている列席者の人たちが、 笑ったり、泣いたりしている。 そんなウエディングエンドロールの仕事に、 強い充実感とやりがいを感じていました。
何の技術も持っていなかった私に、撮影の技術を授けてくれた鈴木さんや、 出会いを与えてくれた制作会社には、いまでも感謝しています。 そして、 自分がそうしてもらったように、 自分より若い世代にも、技術や知識を継承していかなければならないと感じています。
テレビ業界で感じた疑問
就職活動では、さらに映像のプロフェッショナルになるために、 テレビ業界を目指しました。私が入社した会社には、 日本だけでなく、韓国にも支社があることに魅力を感じており、 ゆくゆくは韓国でもテレビの仕事ができればと考えていました。
民放のテレビ局で、 情報番組やドキュメンタリー番組の制作の仕事をしながら、 撮影などの技術面以外の部分を学んでいきました。 (構成の作り方や、撮影場所の手配、移動手段や食事の手配、映像制作の全体的な流れ等々…)
そんななか、今後を左右する大きな出来事がありました。
私が当時制作にかかわっていたのは、朝の情報番組で、 芸能やスポーツ、ニュースまで幅広いジャンルの内容を放送していました。 そのなかで、 小さな女の子が、誘拐・監禁され、殺害されるという事件のニュースを取り扱うことになりました。 起きた事件の概要だけでなく、 なぜそれが起きたか、当事者たちはどんな様子か、何を思っているかなどの、 内面の部分にもフォーカスを当て、映像を作るのが、情報番組の仕事です。
視聴者にわかりやすく伝えることが求められるため、 容疑者の法廷での様子を再現ドラマで描くことになりました。 こともあろうか、 私は再現ドラマで容疑者役を演じました。
実のところ、 この事件の内容を知ったとき、どこかで他人事として捉えていた部分がありました。 自分は親になったこともなく、自分より先に子供に先立たれる親の気持ちは、 想像はできても、理解はできないと思ったからです。
しかし、 再現ドラマに出た途端、そのニュースは他人事ではなくなりました。 自分の姿が、犯罪者として全国のテレビに映しだされるということですから、 視聴者はこれを観て、何を思うのだろうかと、強く考えさせられました。
そこで一つの疑問が浮かんだのです。 女の子が無残に殺されたこと、 犯人が法廷で言った言葉、 遺族の両親の会見で表した怒り。
こんな悲しい出来事を朝の時間に見たい人はいるんだろうか? これは、誰のための映像なんだろうか? そんな疑問が私の中に強く残りました。
悲しいことに、 人の不幸を見ることで、幾分かの喜びを感じてしまう人間の心理はあるのかもしれません。 だからこそ、こういう番組コンテンツは存在しているのです。
求められているのだとしても、 もうこういう映像は作っていきたくはないと思い、 テレビ業界を去る決意をしました。
そしてこの出来事は、 誰の為なのかが明確な映像を作っていきたいと、 強く願うきっかけともなりました。 テレビの仕事を辞めてからは、 どうせなら、自分にしかできないものを突き詰めようと思い、 DEPO LABOという屋号で、 フリーランスの映像ディレクターとしての活動を始めました。
DEPO LABOという映像ブランドを作った6つのきっかけ
- 韓国の母と日本の父の間に生まれたこと
- 父の姿を見ていたこと
- 韓国と日本をつなぐ憧れの存在
- はじめて作った動画作品
- ウエディングビデオの仕事との出会い
- テレビ業界で感じた疑問
これらの6つのきっかけがあって、 DEPO LABOという映像ブランドは生まれたのです。
少しでも、私がやりたいと思っていることが伝わり、 「ほう、こんな奴なのか」と思って、安心していただくきっかけになれば幸いです。
立ち上げのきっかけをお伝えしたところで、 では、なぜ結婚式ビデオを作るのかという理由を、 次の記事に書き記したいと思います。
≪参考記事≫
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